楽譜とは?
私たちにとって楽譜とはどの様なものでしょうか?
今世紀、当たり前となったインターネットやデジタル化の普及、AI技術の進歩により、
生活が便利になった反面、一層、作曲家の自筆譜は軽率に扱われ、
楽譜は速度記号・音量・音符が書かれている、情報の記述と誤解がされがちです。
高校生の頃、尊敬していた先生が毎月ご自宅で勉強会を開催されていて、
そこで自筆譜のことが語られました。
自筆譜を見ることは困難であるけれど、
機会があれば世界各地の図書館や博物館を予約して自分の目で見ること、
それが難しい場合は、学んでいる曲をファクシミリ版で読むことを伝えられました。
(その為にお金を貯めなさいー!とも言われました)
それ以降、機会があれば自筆譜を見たり、ファクシミリ版で確認することを心がけています。
印刷された楽譜からも作曲家からのインスピレーションを得ることが出来ますが、
自筆譜は強力で魔力的なものがあり、想像力が掻き立てられ、
実際目の当たりにすると、鳥肌が立つような不思議な感覚に襲われます。
自筆譜が物語ること
詩人や音楽家や、そのほかの精神と行為の英雄たちを、
宗教にも似た感情を持って知覚できる場合のみ、
彼らの手になる筆跡はその意義と美を
私たちに明らかにすることができるのだ。(ツヴァイク『自筆原稿の世界』)
自筆譜の目の前に立つと、まるでその場所に作者がいるかの様な感覚になります。
作曲家の息遣い、ペンを走らせる音、その時の天候、風の音が聴こえてくる様で、
それは想像にすぎないかもしれませんが、
何かそこに宿っているようで次元を超えた感覚になります。
実際、作曲している時期と往復書簡を併せて読んでみると、
その時の情景が益々、目の前に現れてくるようです。
私たちが書く文字も人それぞれ個性があり、筆圧があり、
またその時の感情によってペンを走らせるテンポが変わってきます。
性格も出ますし、穏やかな気持ちの時、イライラしている時、大切な人へメッセージを送るとき、
同じ「ありがとう」と書く文字は、無意識であってもその時の感情や温度が乗るはずです。
それと同じように、作曲家がインクを付けてペンを走らせる時、
どんな感情を抱いているのか、どの様な時代で、どの場所で、
どの人に向けて音符を書いているのか…
インスピーレーションが掻き立てられ、全身に鳥肌が立つほど興奮し、
目に焼き付けて、その感動をずっと味わいたいと思うものです。
決して大袈裟ではなく、まさに魔力的な何かが宿っているように感じるのです。
手稿・自筆譜を間近で見る機会は限られていますが、
多数の自筆譜が図書館や協会等のアーカイブに所蔵されていますし、
大英博物館、ワシントンの図書館などは少ない手続きで見ることができる様です。
場合によってはご縁がないと見れない楽譜もありますが、
多くの主要な楽譜は、*ファクシミリ版で確認することもできます。
*ファクシミリ版・・・原本、オリジナルを正確・忠実に複写し、出版されたもの。
イタリアの自筆譜
ナポリの国立音楽院の図書館は資料の宝庫として有名で、自筆譜を見たいと思い訪れたことがありました。
その時に学芸員さんがお話して下さった内容に、思わず目が点に。
作曲家の手稿・自筆譜を音楽院の図書館で、素手で学生さんに貸し出しをしていたそうです。
その際、多くの楽譜が戻ってこなかったり、盗難もあり、結局、多くの手稿を紛失してしまったそうです。
この様な信じられない話がナポリに限らず各地で起きた為、
自筆譜を確かめたいと思っても、結局のところ紛失してしまい、真実を掴めないことが多々。
または火事で焼失してしまうなど紛失理由は様々で、どこかのお家の本棚で眠っている可能性もあるのです。
ナポリは南イタリアに位置し、大らかな人柄で楽しい街ですが、楽譜の扱いには少々驚くことがあります。
今も未だ、スカルラッティやチマローザ等の自筆譜が薄いガラスケースの中に入れられ、
廊下の様な、直射日光が当たる場所に展示されています…
一般的に自筆譜を見るには手続きが大変ですが、
南イタリアに行くと割と簡単に閲覧できたりします。
最後に
Sir.アンドラーシュ・シフ著書『静寂から音楽が生まれる』に自筆譜のことが語られており、
最後に書かれていることが印象的で胸に響きましたので、引用します。
インターネットは素晴らしい発明ですが、これは手段であって目的ではありません。デジタル化された素晴らしい代用品は、手稿譜や珍しい初版譜の秘密を適切に再現してはいません。インターネットを利用することは、実用的な事柄にとどまります。『マタイ受難曲』や『平均律クラヴィーア曲集』の自筆譜を画面で見ることを、私たちは当然のこととしてやっていますが、それでは”本当に”それを見た、ということにはならないのです。絶対になりません。深遠な魂の産物である傑作を体験することは ー 音楽であれ、文学であれ、絵画であれ ー すなわち、敬服、畏敬、感謝の念を感じ、参加し、感動することなのです。「昨日の世界」である私たちの文化遺産が、冷たいテクノロジーによって凍りつき、滅びてしまわないことを望みます。
『静寂から音楽が生まれる』アンドラーシュ・シフより引用